記憶に残すか、記録に残すか。

記憶に残すか、記録に残すか。

 

近代は科学技術の発展により、記録に残すことが容易になった。写真、動画、文字、絵…。今は様々な方法を通して、体験を保存できる形にプロセスすることができる。親愛なる友人はこれを「もののあはれ真空パック」という粋な表現をしていた。

 

このブログもきっとその過程の一つなのだろう。徒然なるままに思い浮かんだフレーズたちを白い画面に打ち付ける。そうやって、いつか変化・風化してしまう自分の思考をフリーズドライするのだ。

そういう意味では、こういった保存は全てモダンなタイムカプセルなのかもしれない。どちらにせよ、自分の一部にラップをかけてクラウドという大きな冷凍庫に入れておけば、後々解凍して中身を楽しむことができる。極論、この世に自分が生きていた証を残せるということでもあるかもしれない。開けて見る人はいなくても、その冷凍庫が存在する限り。

 

容易に記録に残せるようになった反面、記憶に残すことが難しくなったように感じる。わかりやすい例でいえば、授業のレジュメだ。印刷やスクショをしただけで満足し、中身を覚えていないということが往々にしてある。私たちはしばしば「記憶」と「記録」を混同してしまうのかもしれない。

記憶するには反復的なリフレインが重要なのである。何度も記憶を想起することでその記憶は海馬から大脳へと移動するのだろう。詳しくはわからないが、複数回記憶を反復させた方が定着が見られることを体感している読者さんは多いのではなかろうか。

 

ただ、記録は記憶のトリガーともなる。例えば旅行に行ったときの写真を見て、「この時、お前とこんな話したよな」とか「ここで入ったこの店、よかったなあ」とか、写真の奥の景色まで思い出すことがあるだろう。

とっかかり、記憶の世界の入り口として「記録」を活用するのは得策かもしれない。だから、綺麗な景色や旅行先の何気ない1コマは写真に残しておきたいと思う。後々電子レンジで温めて楽しむことができるからだ。あのときの、リアルな体験の世界へ再び飛び込み、当時感じていた熱を取り戻すことができよう。

 

それでもなお、記録を上回る記憶というものはある。記録がなくとも思い出せる記憶だ。それも強烈な記憶、春に電撃が走ったような。何もなくても鮮明に思い出せる記憶はふとした瞬間フラッシュバックする。それは、その記憶自体予測していなかったワンシーンだからだ。記録の準備もしていない、記憶しようと努めたわけではない。なのに鮮烈に頭に残って離れない映像がある。その映像はリアルとは違っていたかもしれない。それでも、変わりゆくその映像はただただ美しく変化していく。

雪の舞う地元の町で見上げた素朴なイルミネーション、マフラーにうずめた顔をあげてこちらに向けた笑顔、傘の中で振り向いた輝く瞳。相手はどのシーンか覚えていないだろうし、これが自分に関する記憶だなんて気づかないだろう。私も誰かの記憶の一部になれていたら嬉しいな、なんて思う。目の奥にあるフィルムで記録した美しい記憶は、何度も脳内の映写機で回そう。他の誰も触ることのできない、自分だけの映画館が完成する。

 

記録に残していない何気ない瞬間に人はときめく。だから記憶に残そうと、無意識的に、でも必死に脳内で再生ボタンを押す。何度も何度も反復し、大切な記憶をテープが擦り切れるくらい映し出す。何遍も、何遍も。

繰り返すうちに、その映像は君のスクリーンに焼き付く。当分は消えない、君の財産となる。その大切な景色は自分の一部分を構成していると気づき始める。色あせてもなお美しい記憶。セピア色で趣深くなった映像。気づいた時にはもう忘れられなくなっている。

 

そうやって人はまた、恋に落ちていく。