短編小説『発散』

 

「それ」が発見されたのは、つい最近になってのことだった。時のあゆみと共に発達した科学技術が、「それ」を見つけた。見つけてしまった。

 


「それ」は、スマートフォンの電池が切れた時、信号に間に合わなかった時、通信制限がかかったとき、意見の食い違いが発生した時など、不特定なタイミングで発生する現象、並びにその現象を発現させた人物のことを指す名称である。正式にはそれぞれ「発散現象」「発散現象発現者」と呼ぶが、「それ」へ対する穢れの意識からか、ただ単に「それ」と俗には呼ばれている。

 


「それ」は、○○大学の教授、池野タクミ博士のチームによって世間の知るところとなった。近年、謎の怪我や見たことの無い青あざがよく見られるようになったことが研究に端を発したそうだ。

 

 

 

どうにも、そのような怪我は、複数人でいる際に発生しているらしい。そのような事前知識から、謎の傷を作った経験のある者を無作為に集め、研究がおこなわれた。

 


頻繁に謎の切り傷を作る対象者Fの観察をしていた際、「それ」は初めて現れた。Fの恋人Sが、Fの隣でソーシャルゲームのガチャを回し、苦悶の表情をした瞬間、Fの腕に切り傷が発生した。以前からこのような事例は何度か見られたため、今回は予めスーパースローカメラを設置しており、その映像を確認したところ、果たして「それ」は映っていた。

 


Sが顰め面をした瞬間、自身の形が崩壊している。一瞬だけ、全身が崩壊し、中から黒い触手のようなものが無数に発生する。その触手がひとしきり暴れ回ったあと、Fに切り傷を付けると、触手たちは体だった部分に帰っていく。すると、崩壊した体も元に戻っていく。糸のほつれを戻すように、丁寧に、高速で、「それ」は初めから何もなかったかのように振る舞う。そのような調子だった。

 

 

 

このデータをもとに研究がすすみ、「それ」に関する詳しいことが分かってきた。

「それ」は、他の人間の血液を取り込むことで終了するということ。「それ」がしばらく血液を取り込めない場合、鎮静に必要な血液量が増えるため、近くにいる人間をまるまる飲み込んでしまうこと。人通りの少ない路地裏での行方不明者発生や、田舎での神隠しなどの事件は、「それ」と何かしら因果関係にある可能性があること。「それ」が一度発生した人は、その後も「それ」が発生しやすくなること。

 


「それ」の原因は、ストレスであるということ。

 

 

 

ストレスは適度に発散しなければ、体の中で袋小路に達し、行き場を失う。そうして二進も三進もいかなくなったストレス達は一点に集まり、巣を作る。ストレスの持ち主にさらなるストレスがかかったとき、その巣に溜まったストレス達が一挙に外へ放出されるということらしい。ここまでが、現時点で開示されている情報である。

 


ただし、他人への被害はあくまでもかすり傷程度であり、よっぽど長い時間「それ」を発現しているわけでもなければ、特に心配することはないという。明確に「それ」が関連した神隠し事件も、現在はたった2件しか報告されていない。過度な心配から起きるパニックの方がよほど恐ろしい。

 

 

 

池野研究所の面々は頭を抱えていた。思いのほか、世論やマスコミが騒ぎ立てるのである。「本当に大丈夫なのか」「かすり傷が出来たのだが、友人は「それ」になってしまったのか」などと、毎日電話やメールが飛んでくる。「心配ないので、発散現象を発現した人への誹謗中傷は控えるように」と返事するのが関の山だ。

 


一応、発散現象を抑えるための薬は作っている。臨床試験では、投与された被験者の99%はストレスの軽減を実感している。タクミ自身も身をもって投与したが、確かに、ストレスがスッと減って行ったのを感じた。

 

 

 

「これからは、「それ」が一度起きたことがあるかどうかの検査方法を模索していこう」

ある日の昼休み、タクミは研究メンバー達と話していた。「それ」に関する研究はまだまだ初期段階で、分からないことも多い。ブラックコーヒーを飲みながら、今後の展望について話し合う。

「感染性ではないですよね」という助手に対し、「もしそうだったら、もうみんな傷だらけさ」と返したあと、タクミはゆっくりと目を閉じた。

「俺はねむいから、昼寝をするよ。1時になったら起こしてくれ、じゃあ、おやすみ。」

 

 

 

 

 

 

タクミが目を覚ますと、研究室のメンバー全員があちこちに倒れていた。加えて、全員の首から上がなくなっていた。研究室の壁や机、ホワイトボードには血が飛び散っており、既に黒く変色しつつあった。タクミは驚いて下を見ると、自身の手は真っ黒に変色している。目眩がするが、辛うじて、自身の指が10本より多いことに気がついた。

 

 

 

遅効性の「それ」が初めて発見された事例である。

 

 

 

 

 

 

 

 

※この物語はフィクションです

「生産性」という呪い

「生産性」という言葉は呪いだ。メリとハリの境界を濁す毒だ。


寝ている時、YouTubeを眺めている時、散歩をしている時。「生産性がない」という焦燥感を抱いてしまうことがある。やるべき事はあるけれど、常にタスクを消化せねばならぬ訳では無い。それなのに、「生産性」「生産性」とあくせくしてしまう現代人。


すぐに効率と結果を求める現代社会の呪いか。完璧主義の自分の、身から出た錆か。それとも、就活を控え、「意識を高く(笑)」せねばならぬと思わせる社会・思い込む自分の卑劣さ、愚かさか。


「生産性がない」と嘆くことが、最も生産性がない事だ。今行っていることに無理やりにでも意味を見出すことで、その行為には生産性が産まれる。生産性を生産せよ。


だからといってタスクを放置していれば、酷いことになるのは目に見えているが。自身の休息を許さず、「今日は何もしない日」と決めて積極的に「何もしない」ことをした事の無い人には試して見て欲しい。


一日だけ、積極的に、意図的に、「何もしない」をするといい。

僕らはきっと、後ろ向きにしか歩けない。

友人から面白いLINEが来た。

『君が時間軸の上に立ってるとする。目の前に未来が広がっていて、後ろに過去があると考えるのが普通だよね。でも日本語では過去のことを「前に~した」と言って、未来のことを「後で~する」と言わないかい?』

 

過去のことが「前」で、未来のことが「後ろ」だとすると、どこか不思議な心持がする。私たちは未来に向かって歩いているのだから。

だけれども、もしかしたら、いままで当たり前だと思っていたことは実は正解じゃないのかもしれない。正解なんてあるのかも分からないけれど。

 

過去は、自分を構成する要素の抜け殻たち、つまり屍の山だ。それを踏み台にして、捨てるべきものを捨て、必要なものだけをリュックに詰め込んで歩いている。その残骸たちを取りに帰ることはできず、これからまた拾うとしても代替品にすぎない。けれども、それらは「かつて自分だったもの」だということに偽りはない。

だから私は、過去の自分を反省することはあっても、否定だけはしたくない。失敗して、傷つけられて、傷つけて。そういった創傷と治癒、破壊と創造を繰り返し、たどり着いたが死に覚え。私は残機が尽きるまで、何度だって失敗を積み上げ、学び、最善の今日を歩めるように選択を続けるんだ。残機がどれくらいかわからない、寿命を延ばす緑のキノコが存在するかもわからない。だけど、豊かな経験と親愛なる周りの人々が私の日常に彩りをくれている事は知っている。なるべく失敗したくないから、失敗するんだ。ありがとう、死んだ私たち。ありがとう、殺してくれた君。ありがとう、私の死体ごと愛してくれるあなた。

 

じゃあ、未来ってなんだ。無だ。偶然の産物だ。私の行動が起こした風が未来の歯車を動かすきっかけになる、バタフライ・エフェクト。そこに予測も必然もない。君が放ったワンフレーズが私の進路を変えるかもしれないし、人差し指のワンタップが誰かの牛丼代になるかもしれない。わからない。何も分からない。

人生が思い通りに行ったことはない。宝くじは当たらないし、お姉ちゃんは存在しないし、もっと金が欲しい。奇跡は起きないから、努力もせず東大に入るなんてことはできなかったし、隣人が実は友人で「鍋作りすぎちゃったんで」ってピンポンされることも無い。いくら指パッチンができるようになったって、ランボルギーニが買えるわけでもない。

でも、思い通りにいかないから、思いもよらないことが起きる。それは君の中にある。思い出して欲しい、「これは奇跡だ」と一瞬でも抱いたあの高揚感を。四季めぐる木々の輝きと歌声を、太陽が浮かぶ海原の煌めきを。この残酷で退屈で美しい星に生まれたということを。夜空を見上げれば、遠くで億万もの石ころがイルミネーションを構成しているということを。自分を受け入れてくれる素敵な人々との出会いを。街中でばったり会えた、という小さく可愛らしい奇跡を。

 

ここでお気づきの方もいるかもしれない。

過去は見えるけれど、未来は見えない。

私たちは、ただひたすらに前を見つめながら後ろ向きに歩いている。

 

だから私たちは前を見て、「こういう状況の時にはこれが起きたから、つぎも同じようになるかもしれない、気を付けよう」もしくは「楽しみだな」などと類推しながらそろりそろりとカカトを後ろに進めるしかない。後ろは見えないから、前と同じようなことが起こるとは限らない。お気に入りのホワイトムスクは別の人にとっては苦手な香りかもしれないし、グー・パーの順で勝てたからといって次にチョキで勝てる絶対的な保証もない。後ろ向きに歩けば、たとえ振り返ろうとも一寸先の闇中に転がる石ころになんて気づくこともないから、思いもよらない場面で転倒することもある。仕方ないことだ。だけれども、その転んだ足元に咲く一輪の花がこの上なく美しかったり、花言葉が心に深くしみいることだってあるはずだ。これは転ばなければ手に入れることのなかった僥倖だ。その花を、もしくはその記憶を胸に抱え、また立ち上がって、後ろ向きに歩いていく。何で躓くかがまったくわからないから、人生は面白い。

君の道はどこまで続いているんだろう。私の道はどこで急に途切れるんだろう。それがわからないから、なるべく後悔を残したくないし、大事な人にはちゃんと伝えるべきことを伝えたい。memento mori を忘れがちな現代、これを何度も反芻することが私の人生小説を紙くずにしないエッセンスとなるだろう。いつまでプロローグを書けば気が済むのか。あとどれだけ生きれると思っているのか。このままだと、きっとエピローグはおろか、本文すらままならないままに死ぬだろう。それでもいいから、早いこと第一章に入らねばならない。このブログも、自分という小説を書くための手助けとなるかもしれない。

 

ところで、「前」と「後ろ」の他にも世界は広がっていることを忘れてはいないだろうか。それは、君の「上下左右」だ。すなわち、「今」だ。

前の選択が今を作り、後の道は今が作る。キーポイントは「今」だ。だが現代人、前や後ろばかり気にして上下左右に広がる景色を見落としてはいないか。少なくとも私は見逃していた。横に広がる美しい世界を、味わっていなかった。過去に捨てたものを見つめ、見えない未来を思案し、私の精神はいつも「今ここ」には無かったように思える。

桜が咲く前は「早く咲かないかな」と待ち遠しく感じ、咲いたら咲いたで「散るのかな、やだな」と嘆き、散り始めては「満開の頃に戻りたい」と叶うことの無い願いを抱く。

どこかに向かって移動している時も、「着いたらあれして、これして…」と計画しているのはいいとして、着いたら着いたで「次はこういう風に動いて…」と考えることをやめない。終わってみてから充実感は感じられたとしても、どこか物足りなさを感じ「本当に楽しめたかな」と内省し始める。

酷く愚かだ。無闇やたらに前後を振り返り、首が痛くなる。そうやって、天に輝く太陽や青空も、左右に息づく動植物たちも、足元の水たまりにうつる虹やその上を闊歩するアメンボさえも見落とす。

 

だから、私は、「今」を生きることにした。

今この瞬間、私の周りで起きていることを最大限享受できるように。

今この瞬間、どんなに良いとは言えない状況だとしても、その中で自分に必要なものを見つけることができるように。

今この瞬間、私のそばに居てくれる人をまっすぐに見つめることができるように。

 

後ろ向きに歩いている「今」がどんなに素敵かを考えながら、これからも1歩ずつ足を進めて生きたい。

 

僕らはきっと、後ろ向きにしか歩けない。

 

記憶に残すか、記録に残すか。

記憶に残すか、記録に残すか。

 

近代は科学技術の発展により、記録に残すことが容易になった。写真、動画、文字、絵…。今は様々な方法を通して、体験を保存できる形にプロセスすることができる。親愛なる友人はこれを「もののあはれ真空パック」という粋な表現をしていた。

 

このブログもきっとその過程の一つなのだろう。徒然なるままに思い浮かんだフレーズたちを白い画面に打ち付ける。そうやって、いつか変化・風化してしまう自分の思考をフリーズドライするのだ。

そういう意味では、こういった保存は全てモダンなタイムカプセルなのかもしれない。どちらにせよ、自分の一部にラップをかけてクラウドという大きな冷凍庫に入れておけば、後々解凍して中身を楽しむことができる。極論、この世に自分が生きていた証を残せるということでもあるかもしれない。開けて見る人はいなくても、その冷凍庫が存在する限り。

 

容易に記録に残せるようになった反面、記憶に残すことが難しくなったように感じる。わかりやすい例でいえば、授業のレジュメだ。印刷やスクショをしただけで満足し、中身を覚えていないということが往々にしてある。私たちはしばしば「記憶」と「記録」を混同してしまうのかもしれない。

記憶するには反復的なリフレインが重要なのである。何度も記憶を想起することでその記憶は海馬から大脳へと移動するのだろう。詳しくはわからないが、複数回記憶を反復させた方が定着が見られることを体感している読者さんは多いのではなかろうか。

 

ただ、記録は記憶のトリガーともなる。例えば旅行に行ったときの写真を見て、「この時、お前とこんな話したよな」とか「ここで入ったこの店、よかったなあ」とか、写真の奥の景色まで思い出すことがあるだろう。

とっかかり、記憶の世界の入り口として「記録」を活用するのは得策かもしれない。だから、綺麗な景色や旅行先の何気ない1コマは写真に残しておきたいと思う。後々電子レンジで温めて楽しむことができるからだ。あのときの、リアルな体験の世界へ再び飛び込み、当時感じていた熱を取り戻すことができよう。

 

それでもなお、記録を上回る記憶というものはある。記録がなくとも思い出せる記憶だ。それも強烈な記憶、春に電撃が走ったような。何もなくても鮮明に思い出せる記憶はふとした瞬間フラッシュバックする。それは、その記憶自体予測していなかったワンシーンだからだ。記録の準備もしていない、記憶しようと努めたわけではない。なのに鮮烈に頭に残って離れない映像がある。その映像はリアルとは違っていたかもしれない。それでも、変わりゆくその映像はただただ美しく変化していく。

雪の舞う地元の町で見上げた素朴なイルミネーション、マフラーにうずめた顔をあげてこちらに向けた笑顔、傘の中で振り向いた輝く瞳。相手はどのシーンか覚えていないだろうし、これが自分に関する記憶だなんて気づかないだろう。私も誰かの記憶の一部になれていたら嬉しいな、なんて思う。目の奥にあるフィルムで記録した美しい記憶は、何度も脳内の映写機で回そう。他の誰も触ることのできない、自分だけの映画館が完成する。

 

記録に残していない何気ない瞬間に人はときめく。だから記憶に残そうと、無意識的に、でも必死に脳内で再生ボタンを押す。何度も何度も反復し、大切な記憶をテープが擦り切れるくらい映し出す。何遍も、何遍も。

繰り返すうちに、その映像は君のスクリーンに焼き付く。当分は消えない、君の財産となる。その大切な景色は自分の一部分を構成していると気づき始める。色あせてもなお美しい記憶。セピア色で趣深くなった映像。気づいた時にはもう忘れられなくなっている。

 

そうやって人はまた、恋に落ちていく。

 

 

恋愛って、花火みたい。

恋愛体質の私が、この前友人と話した内容を書き連ねます。短めです。

 

恋愛って、花火みたい。

 

打ち上げか、手持ちか、線香か、など。それぞれの恋愛の形次第だけど、どれも美しくて、派手で、儚い。

 

火は危険だ。怪我するかもしれない、火傷するかもしれない。体に着いた傷跡が消えなくなるかもしれない。それなのに「火遊び」をしてしまうのはなぜだろう。燃え上がれば燃え上がるほど楽しいのはなぜだろう。リスクとスリル、背徳感の誘惑。危険を冒してまでのめり込んでしまうほどの魅力とは何なのか。あるいは、そのリスクさえ魅力の一部、嗜好のスパイスなのか。

 

花火は美しい。しかし残念なことに、いつかその火の命が尽きてしまうこともある。

 

その花火が終わると、その場から光は消えてしまう。しつこく漂うは、火薬の香り。ああ、終わっちゃったな、って力なく笑いながら、やりたくもない後片付けをしなくちゃならない。

 

バケツに刺さった残骸たち、灰になった花火はもう元には戻らないし、迂闊に触れるとボロボロと崩れてしまう。懐中電灯の人工的で無骨な光を頼りに水に流し、その場には何も無かったかのように振る舞う。

 

一瞬だけ、夢を見た。そう思ってしまうくらい、今までは空を飛び交っていた光たちはどこかに隠れてしまった。

 

ここが暗くなると、別の場所で花火が上がっているのが見える。汚い、うるさい。そう思うのも無理もない。

 

でも、夜が深けた頃に気づく。この花火は打ち上げる前から始まっていたんだ。花火を作ってくれた人がいる。準備しながらワクワクしていた私たちがいる。そして、花火の光を浴びて輝いていた時間がある。

 

どうして花火は消えてしまって、続かなかったのか。火薬の残り香と少しだけ漂っている火の粉が、闇を切り開く手がかりとなるだろう。

 

好きだったなって、楽しかったなって。そう思えた時、夜明けが訪れる。ゆっくりと、着実に。塞ぎ込んだ夜中も、この朝焼けも、花火と同じくらい大切な景色となって私の胸に刻まれるんだろう。

 

日が登って、朝が来て。火薬の匂いも薄れた頃に。
「あの花火、綺麗だったな」って、笑えるような恋がしたい。