僕らはきっと、後ろ向きにしか歩けない。

友人から面白いLINEが来た。

『君が時間軸の上に立ってるとする。目の前に未来が広がっていて、後ろに過去があると考えるのが普通だよね。でも日本語では過去のことを「前に~した」と言って、未来のことを「後で~する」と言わないかい?』

 

過去のことが「前」で、未来のことが「後ろ」だとすると、どこか不思議な心持がする。私たちは未来に向かって歩いているのだから。

だけれども、もしかしたら、いままで当たり前だと思っていたことは実は正解じゃないのかもしれない。正解なんてあるのかも分からないけれど。

 

過去は、自分を構成する要素の抜け殻たち、つまり屍の山だ。それを踏み台にして、捨てるべきものを捨て、必要なものだけをリュックに詰め込んで歩いている。その残骸たちを取りに帰ることはできず、これからまた拾うとしても代替品にすぎない。けれども、それらは「かつて自分だったもの」だということに偽りはない。

だから私は、過去の自分を反省することはあっても、否定だけはしたくない。失敗して、傷つけられて、傷つけて。そういった創傷と治癒、破壊と創造を繰り返し、たどり着いたが死に覚え。私は残機が尽きるまで、何度だって失敗を積み上げ、学び、最善の今日を歩めるように選択を続けるんだ。残機がどれくらいかわからない、寿命を延ばす緑のキノコが存在するかもわからない。だけど、豊かな経験と親愛なる周りの人々が私の日常に彩りをくれている事は知っている。なるべく失敗したくないから、失敗するんだ。ありがとう、死んだ私たち。ありがとう、殺してくれた君。ありがとう、私の死体ごと愛してくれるあなた。

 

じゃあ、未来ってなんだ。無だ。偶然の産物だ。私の行動が起こした風が未来の歯車を動かすきっかけになる、バタフライ・エフェクト。そこに予測も必然もない。君が放ったワンフレーズが私の進路を変えるかもしれないし、人差し指のワンタップが誰かの牛丼代になるかもしれない。わからない。何も分からない。

人生が思い通りに行ったことはない。宝くじは当たらないし、お姉ちゃんは存在しないし、もっと金が欲しい。奇跡は起きないから、努力もせず東大に入るなんてことはできなかったし、隣人が実は友人で「鍋作りすぎちゃったんで」ってピンポンされることも無い。いくら指パッチンができるようになったって、ランボルギーニが買えるわけでもない。

でも、思い通りにいかないから、思いもよらないことが起きる。それは君の中にある。思い出して欲しい、「これは奇跡だ」と一瞬でも抱いたあの高揚感を。四季めぐる木々の輝きと歌声を、太陽が浮かぶ海原の煌めきを。この残酷で退屈で美しい星に生まれたということを。夜空を見上げれば、遠くで億万もの石ころがイルミネーションを構成しているということを。自分を受け入れてくれる素敵な人々との出会いを。街中でばったり会えた、という小さく可愛らしい奇跡を。

 

ここでお気づきの方もいるかもしれない。

過去は見えるけれど、未来は見えない。

私たちは、ただひたすらに前を見つめながら後ろ向きに歩いている。

 

だから私たちは前を見て、「こういう状況の時にはこれが起きたから、つぎも同じようになるかもしれない、気を付けよう」もしくは「楽しみだな」などと類推しながらそろりそろりとカカトを後ろに進めるしかない。後ろは見えないから、前と同じようなことが起こるとは限らない。お気に入りのホワイトムスクは別の人にとっては苦手な香りかもしれないし、グー・パーの順で勝てたからといって次にチョキで勝てる絶対的な保証もない。後ろ向きに歩けば、たとえ振り返ろうとも一寸先の闇中に転がる石ころになんて気づくこともないから、思いもよらない場面で転倒することもある。仕方ないことだ。だけれども、その転んだ足元に咲く一輪の花がこの上なく美しかったり、花言葉が心に深くしみいることだってあるはずだ。これは転ばなければ手に入れることのなかった僥倖だ。その花を、もしくはその記憶を胸に抱え、また立ち上がって、後ろ向きに歩いていく。何で躓くかがまったくわからないから、人生は面白い。

君の道はどこまで続いているんだろう。私の道はどこで急に途切れるんだろう。それがわからないから、なるべく後悔を残したくないし、大事な人にはちゃんと伝えるべきことを伝えたい。memento mori を忘れがちな現代、これを何度も反芻することが私の人生小説を紙くずにしないエッセンスとなるだろう。いつまでプロローグを書けば気が済むのか。あとどれだけ生きれると思っているのか。このままだと、きっとエピローグはおろか、本文すらままならないままに死ぬだろう。それでもいいから、早いこと第一章に入らねばならない。このブログも、自分という小説を書くための手助けとなるかもしれない。

 

ところで、「前」と「後ろ」の他にも世界は広がっていることを忘れてはいないだろうか。それは、君の「上下左右」だ。すなわち、「今」だ。

前の選択が今を作り、後の道は今が作る。キーポイントは「今」だ。だが現代人、前や後ろばかり気にして上下左右に広がる景色を見落としてはいないか。少なくとも私は見逃していた。横に広がる美しい世界を、味わっていなかった。過去に捨てたものを見つめ、見えない未来を思案し、私の精神はいつも「今ここ」には無かったように思える。

桜が咲く前は「早く咲かないかな」と待ち遠しく感じ、咲いたら咲いたで「散るのかな、やだな」と嘆き、散り始めては「満開の頃に戻りたい」と叶うことの無い願いを抱く。

どこかに向かって移動している時も、「着いたらあれして、これして…」と計画しているのはいいとして、着いたら着いたで「次はこういう風に動いて…」と考えることをやめない。終わってみてから充実感は感じられたとしても、どこか物足りなさを感じ「本当に楽しめたかな」と内省し始める。

酷く愚かだ。無闇やたらに前後を振り返り、首が痛くなる。そうやって、天に輝く太陽や青空も、左右に息づく動植物たちも、足元の水たまりにうつる虹やその上を闊歩するアメンボさえも見落とす。

 

だから、私は、「今」を生きることにした。

今この瞬間、私の周りで起きていることを最大限享受できるように。

今この瞬間、どんなに良いとは言えない状況だとしても、その中で自分に必要なものを見つけることができるように。

今この瞬間、私のそばに居てくれる人をまっすぐに見つめることができるように。

 

後ろ向きに歩いている「今」がどんなに素敵かを考えながら、これからも1歩ずつ足を進めて生きたい。

 

僕らはきっと、後ろ向きにしか歩けない。